笑顔のまんま〜🎵笑顔のまんま〜🎵生きてるだけで丸儲け🎵
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前聞いたことはあったな〜と
お時間がある時お読みください😊
「さんまの〝生きてるだけで丸儲け〟に込められた深い思い」
「母の死」による不遇な幼少時代…それでも「生きてるだけで丸儲け」だった
いつも笑っていて、いつも人を笑わせている明石家さんま。
さぞ楽しい家庭に育ち、面白い家族とこのセンスを幼少時代から送ってきたんだろう…と思う人も多いと思う
実はさんまの実母は3歳のころに亡くなっており、その後父が再婚したが、
継母から辛らつな言葉を多く投げかれられたという
さらに継母が酔っ払ったときに「うちの子はこの子だけや」とこぼしたのを聞いたさんま。
この子とは継母の連れ子であるさんまの弟のことである
さんまの兄によると、この経験からさんまは酒飲む女の人が苦手なんだと語っています。
継母に相手して貰えずに子供のさんまは酷く傷つき、
それでも振り向いてもらおうと面白いことを考えたことがお笑い芸人としてのルーツとなったようだ
さんまを遠ざけ、自分の子だけをかわいがっていたという継母。
それでも弟となる継母の連れ子は兄であるさんまを尊敬し、
そしてさんまも弟のことを「チビ」と呼び、本当にかわいがっていたという。
弟さんは、大阪のさんまさんのマンションにもしょっちゅう遊びに行くほど良好な関係だったという。
しかしさんまが芸能界に入り「オレたちひょうきん族」などの冠番組を持つほどになったある時に弟が実家の火事で亡くなってしまった
このとき弟さんはまだ19歳でした。
弟の死を受けて「チビ(弟)のほうがすごいんですよ。
サッカー部のキャプテンで、インターハイにも出たし、国体選手にも選ばれたしねえ……。
大阪のぼくのマンションに遊びにきたとき、今度のワールド・カップをふたりで一緒に見に行こう。
キップはぼくが買っとくからって、約束しとったのに。まだ納得できません、あのチビが死んだなんて……」
と、ショックを隠しきれずにいたさんま。さらに焼死を聞きつけ集まったマスコミに対し、無表情で
「僕じゃなくて本当によかったですね、僕だったら新聞の一面は『さんま焼ける』になりますよね」と言い放った。
さんまは肉親の死すら飯の種にしようとするマスコミに対し、自分流の意趣返しを行ったのだ。
このことに、相当ショックを受けてしまい、一時は芸能界を引退しようかと思うほど、笑いが取れない日々が続いた。
しかしそれを見兼ねたのがオール巨人。舞台にさんまと一緒に出た時、唐突に 「お前んち、兄弟焼いたらしいな?」とツッこんだという
するとさんまはすかさず「そや、材木きれたから代わりに焼いたんや」と、ボケたという
その後、楽屋に帰ったさんまは、
「ありがとう。これで芸人辞めんですむわ」と、涙ぐみながら感謝したという
1985年に単独機では世界最大の犠牲者を出すことになった日本航空123便墜落事故。
乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、生存者(負傷者)は4名であった。
この事故で歌手の坂本九をはじめ、数多くの著名人が亡くなった。
実は明石家さんまは、あの日本航空123便墜落事故で死んでいたはずだったという
日本航空JAL123便墜落事故は、1985年8月12日に起きました。犠牲者数520名の大惨事です
当時、この飛行機の便にさんまは元々乗る予定だったという
しかし「オレたちひょうきん族」の収録が早く終わったことから日本航空123便をキャンセルし一つ前の飛行機に搭乗していた
事故当日は、現在でもレギュラーでMCを務めているラジオ『MBSヤングタウン』の生放送があったが、番組はほぼ事故の報道に終始。
途中、ようやく登場したさんまは「遺族のお気持ちを考えると、ちょっとお笑いトークはできませんね。
しかも、日航123便は、この『ヤングタウン』に出演するための移動手段として、私もよく利用していたんですよ。
今日も123便を利用する予定でした。身体がずっと震えています。
もしかしたら、私も死ぬところだったかもしれない」と語り、その後はずっと曲が流されたという。
このことはさんまはかなりのショックを受けたそうで現在でも大阪東京間は飛行機を乗らずに新幹線を利用しているという
本当ならば明石家さんまは日航機事故で亡くなっていたのかもしれない。
そう考えることで、もう一度生かされた人生を最高に楽しみ、
周りを笑顔をすることが彼に与えられた使命であるというふうな考えになったのではないだろうか
このように常に『死』を意識して生きてきたさんまだけに、 『生きてるだけで丸儲け』という言葉が深みをもってくる
「俺は幸せな人を感動させたいんやなくて、泣いてる人を笑わせて幸せにしたいんや。これが俺の笑いの哲学や」
ありがとうございます😊